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カラフト伯父さん
カラフト伯父さんを観劇して来ました。笑いの場面も悲しい場面も、いのおさんはこんな表情を知っているんだ、と新しい発見でいっぱいの舞台だった。


子供の頃、困った時や悲しい時必ず来てくれた吾郎さんのことをカラフト伯父さんと呼んでいた徹くん。
お母さんが亡くなった時、お母さんはほんたうのさいわひを探しに行ったんだよと教えて貰った徹くん。
けれど阪神淡路大震災が起きた時、どんなに助けを呼んでもカラフト伯父さんは来なかった。
助けを呼ぶ小さな男の子の声、大学生の声、紅く燃える街。布団で眠るとあの震災の時聞こえたものが蘇って眠れない。だから小さな軽トラの中で耳を塞ぐみたいに布団にくるまって毎晩眠っていた。
たくさんの人達の苦しみを抱えて、助けて欲しいと願いながらずっと一人で生きてきた徹くんは、長い時を経て再会した吾郎さんを冷めた目線で見つめていた。
せっかく貰った徹くんのお給料をお酒に費やしてしまった吾郎さんを見て大笑いする徹くんからは、温度が感じられなくてとても怖かった。
陽気に振る舞う吾郎さんと、終始冷たい目で吾郎さんを見つめる徹くんは対照的で、震災によって出来た二人の心の距離が浮き彫りになっていたように思いました。
そして、徹くんは終盤にその苦しみを爆発させます。


カラフト伯父さん!カラフト伯父さん!ほんたうのさいわひは、どこにあるんや…

あんな風に怒りや悲しみをぶつけるいのおさんを、初めて見た。ただただ圧倒され続けていた。普段は辛いことも悲しいことも一切出さないいのおさんが、この舞台で見せる負の感情。尊くさえ思えたし、悲しみの中に消えてしまいそうなほど、か弱くはかなくも見えた。これがいのおさんが思う震災の悲しみなのかと思うと、胸の奥が締め付けられるような気持ちになりました。
泣き叫ぶ徹くんに客席のあちこちからすすり泣く声が響いて、悲しみや苦しみが自然と私にも伝わって来て。あの空間にいるみんなで悲しみを共有していると、まるで舞台の一部になったみたいな不思議な感覚だった。




長い時が経って、かつて震災によって滅茶苦茶になった土地にも今はたくさんのビルが建ち並んでいるけれど本当に復興したんだろうか。心の復興はされていないままなのではないか?徹くんのあの感情爆発の場面はそんなことを暗に示しているように思います。だから、パンフレットやポスターの表紙にあった青空にぽっかり空いた白い穴の写真は、復興したと思われた中で、心に空いたままの穴なのだと思ってる。そこにあるはずの何かが、未だに欠落している。そういう事実を伝える舞台だったのかなと思います。

面白い舞台なのか、観劇経験の少ない私には分からないけれど、記録する劇として事実を伝え、考えるきっかけを与えるものとなっているんじゃないかな。少なくとも私はゴーストタウンの話に東日本大震災を重ね合わせて見ていた。避難せざるを得なくなってゴーストタウンになった街に雑草が背丈よりも高く覆い茂ったり、使われなくなった線路が朽ち果てていったり、除染で出たものが空き地に積み上げられて異様な景色となっていったり。ふるさとから人の温もりが消えてしまうってひどく悲しいものなんですよね。いのおさんを通したことで阪神淡路大震災が少し身近になった気がするので、私にとってカラフトの観劇はとても意味のあるものだった。


そして、この舞台に多く登場する、ほんたうのさいわひという言葉。銀河鉄道の夜には、ほんたうのさいわひについて、こんな一節がありました。とりあえずここが繋がりそうかなと思ったので引用してみます。

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠とうげの上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
青年が祈るようにそう答えました。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」,新潮文庫)


舞台の終盤には、ほんたうのさいわひについて「自分達には関係のないところにある。もしかしたら(自分達の)孫達の世代なら見つけられるかもしれない」というような吾郎さんの台詞があった。


幸せに向かう過程にいろいろなかなしみがあって、自分達とは関係のないところにあるものが、ほんたうのさいわひ。だというのなら、カラフト伯父さんでのほんたうのさいわひは本当の復興、つまり物的な面だけでなく心の面でも復興することを意味していて(私個人の解釈だけど)、それはずっと向こうにあるのだということなのかな。それなら徹くんの感情爆発シーンで今も心の復興がされない様子を力強く描いたのも納得出来るから。




カンパネルラ!天上へは、行けたんか?吾郎さんと和解して出発する場面で、そう叫ぶいのおさんはとても優しい表情をしていました。徹くんにとってのカンパネルラって、阪神淡路大震災で背負うこととなったたくさんの人達なんじゃないかな。その肩の荷は、たぶん降りてはいないけれど、徹くんがひとりではなくなったので救われる結末ではあったんだと思う。だからこそあんな優しい顔をしていたのかなと思っている。

徹くんが心から幸せだと思える日が早く来て欲しい。自分達には関係のないところにあるなんて言わないで、ほんたうのさいわひを自分で、自分達の世代で見つけ出したい。そんなことを考えながらグローブ座を後にしたのでした。まだまだ考え切れてない部分たくさんあるけど、本当に観に行って良かったと思う。いのおさん、たくさんの気付きときっかけをありがとう。

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